入間野神社(いるまのじんじゃ)
西武新宿線・入曽駅から
12・3分歩くと入間野神社がある。
ご祭神
・大山祇命
・木花開耶姫命鎮座地 埼玉県狭山市南入曽641
正月を開けた2日、
僕は車で狭山市あたりの神社を巡っていたが
昼過ぎにここに着いた。
神社の左側に小道があり
奥に駐車できるスペースがあったので
そこに停めて
入り口に回って鳥居をくぐった。
神社の前を走っている道は
鎌倉街道(上道)で
昔、武士たちが鎌倉に向けて
通った道だ。
武士たちもこの神社に来て
お参りしたこともあるのかな、
と思いながら鳥居をくぐった。
「初詣で」の赤い旗が入り口に
立っていたが、
1つ目の鳥居の左右には
護国系の胸をはった凛々しい狛犬がいた。
昭和55年(1980)建立 狛犬
2つ目の鳥居の左右には
よく見かける岡崎型の狛犬がいた。
昭和17年(1943)建立 狛犬
3つ目の鳥居をくぐると
神明造りの拝殿が現れ
幾人もの参拝者で溢れていた。
拝殿の左側では
若いお兄さんが、
お酒を振る舞っていた。
さすが、正月三が日のことだ。
参拝したあと、
奥に行くと招魂神社もあった。
聖域といった雰囲気で
とても気持ちがよかった。
神社を散策して
欅の木の前に来て
見上げると
太陽が木の陰から姿を現して
眩しく輝いていた。
御神木だ。
幹のコブから
現れた太陽は
目がくらむほど
輝いていた。
今回、描いた絵は
そのときの
見上げた御神木を
イメージして絵にしてみた。
社号 | 入間野神社 |
---|---|
祭神 | 大山祇命、木花咲耶姫命 |
相殿 | 天照大神他六神 |
境内社 | 入間招魂社 |
住所 | 狭山市南入曽640-2 |
祭日 | – |
備考 | – |
「埼玉の神社」による入間野神社の由緒
入間野神社(狭山市南入曽六四一)南入曽字御嶽堂
鎮座地南入曽は、武蔵野台地の一角を占める狭山丘陵上に位置するため、古来、農耕は天水を頼るしかなかった。そのため、隣接する北入曽にある「七曲の井」や掘兼にある「掘兼の井」などの旧跡に見られるように、この地域では古くから大規模な井戸が掘削されてきた町である。国井神社という当社の古称から、当社は井戸の神・水の神として、祀られたとも考えられる。
社伝によれば、当社の創建は建久三年と伝え、古くは国井神社と称していたが、後に御嶽大権現と改lめたという。改称の年代は明らかではないが、内陣に納める祭神大山祇命の本地仏である石像の銘文に「天正六年戊寅卯月」とあるところから、あるいはこの年に御嶽大権現を勧請し、社名を改めたものかと推察される。
明治初めの神仏分離により、別当であった金剛院の管掌を離れ、社号を御嶽神社と改め、明治五年には南入曽の村社となった。同四〇年には八坂神社・天神社・稲荷社・神明社の四社を合祀し、更に、同四四年には水野の村社で木花咲耶姫命を祀る浅間神社を合祀すると同時に社名を入間野神社と改めた。よって、覆屋の中には、流造りの御嶽神社本殿と春日造りの浅間神社本殿とが並んで奉斎されている。(「埼玉の神社」より)
埼玉県・狭山市掲示による入間野神社の由緒
入間野神社の主祭神は大山祇命と木花咲耶姫命で、合祀神として天照大神ほか六神を祀っている。
社伝によると、当社は建久二年(一一九一)の創建と伝えられ、石造の御神体には天正六年(一五七八)の年号が刻まれている。旧号を国井神社、後に御岳大権現と称し、社領として慶安二年(一六四九)に十石の御朱印を賜わっている。
明治元年の社号改正につき、御岳神社と改称したが、明治四十四年に大字水野にあった浅間神社を合祀し、現在の名称となった。
大祭は毎年四月十五日、十月十五日、十一月二十三日に行われるが、特に十月十五日には県指定文化財の「入曽の獅子舞」が奉納される。当社には宝暦八年(一七五八)の獅子舞の絵馬があるので、それ以前から伝承されているものと思われる。(埼玉県・狭山市掲示より)
題材のヒント: